質問 |
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| 質問者:marusaku | 他人に親切を心掛けている方、ご回答お願いします。 | |
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困り度:
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現在保育士の資格取得のために社会福祉を学んでおります。 他者を助けようとする意図についてふと疑問が浮かびましたので教えてください。 世界の歴史を振り返ると、弱者への救済には政治的な意図(自分の権力を定着させるため)や、宗教的な意図(キリスト教的には、自分の罪滅ぼしや、死後救われるための善行目的も含む)があったとのことです。 また、国内においては江戸時代に、儒教の朱子学に基づく救済論が説かれたそうです。(ウィキぺディアで調べましたら、儒教は宗教ではないという捉え方が一般的だそうです。) 私は長らく宗教的な動機で他人に親切にしてきたのですが(周りが皆そうだったこともあり、動機が定着すればあとは惰性でできるというか、それが当たり前というか自然に行動指針となっている感じでした)、現在は無宗教のため、特に理由はないけれど人当たりは悪くないほうだと思います。 親しみを感じる人には仲間意識と言うか一体感がありますので、相手が喜ぶと自分も嬉しくなるので優しくしたいと思って優しくできます。 でも、(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。 駅等での共同募金の呼びかけ等にも、素通りできるくらいになってしまいました。ニュースを見ても、困っている人が世の中にいるという現実にも心が痛まなくなってしまいました。 社会問題に対する自分の無力さを知ったことも一因だとは思いますが、主な原因としては他人に無関心になったように思います。 そこで皆様に質問です。 <他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> ※ただ、人に親切にすると気持ちがいいから、という理由では不足な気がします。皆がそうであるわけではありませんから。身内への情誼でさえ「面倒臭い」という人もいます。 この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。 儒教的思想だとそうでもないような気がしますが…(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。) また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。 もちろん、身内に十分に親切にするだけでも、大変というか大切なことです。家族を疎かにしてしまうことだって珍しくないと思います。 だとすると、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」 これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。 でも、年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。 それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ、(遠距離だった相手と1年半前に結婚しました)家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。 <宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> 自己弁護というか自問自答な部分もありますがご容赦ください。 <>内の疑問に関する皆様のご意見や経験を教えてください。すみませんがよろしくお願いします。 |
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質問投稿日時:08/12/02 14:12 質問番号:4523948 |
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回答 |
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| 回答者:yukiyama20 | はじめまして。 ずっと自分と向きあっていましたが 久しぶりにネットを見たら連日のように叩かれていて 「他者」というものを考えてみたりしました。 といってもこの数ヶ月、精神的に相当きつかったので 本もろくに読めず、まともに思考していないので どうなるか自分でも不安です。 私は仏教についてもまじめに調べていた時期があるんですね。 その頃は、全ての宗教には共通した真理があるかも と考えていましたし、一つの宗教だけではなく多くの宗教を 学んで偏らないようにしようと頑張っていました。 私の場合、初めの教会が問題あったから それがずっと尾を引いて悩んでいましたけど でも結局、病んで、気が狂っているとかなんとか。 どうなんでしょう。 そんな時、キルケゴールの哲学を知って単独者という概念 を知ったんですね。神の前に唯一人で向き合うこと。 この人は教会も弾劾した人でした。 もう難しいことは記憶のかなたですが確か、 美的→倫理的→宗教的と実存の三段階というものがあり さらに宗教的実存にはAとBがあり、 Aは自己の宗教が絶対でBは全てを神の意志にゆだねるという ものみたいです。 救われても救われなくてもいい全てを神にゆだねる・・・のかな? でもこれって、することがなくなりますよね。 救われるか救われないかわからない不安の中を生きる という確かなものなど無い現代の思想の先駆けらしいですけど。 それで、キルケゴールの場合は「他者」が出てこないんですね。 神もキルケゴールの神は抽象的で語りかけてこない神。 孤独だったキルケゴールには限界があった。 でも旧約聖書を読むと神はやたらと語りかけてくる。 出エジプト記などではひたすら神がエジプトから救ったと 自己主張します。ちなみにこの神の名前が「わたしはある」 なんです。 つまり、神を信じるは、「私はある」を信じる。 「全てを疑って、私はある」といった人がいましたが 「私はあることを信じる」いった人もいるみたいです。 だから私があるというのは、かなり重要な問題です。 単純に無我とかでは済まない話です。非我という説もありますし。 それで、他者についてなんですが最大の他者というのは やはり、神なんですね。 神という他者と向き合って私がある。 でも一人でただ神と向き合っていては 結局世界に一人きり。 これだと社会生活が成り立たないから問題ありということになる そこで私とあなたとの間にこそ神がいる。関係こそが神である なぜなら神は愛だから。人間と人間とが愛しあってこそ 神は愛となる。という思想が世の中にあるらしいです。 もし私と他者が憎みあえば神も憎しみになってしまうかもしれない。 そうなると、やはり、まずいですね。 というわけで人間と人間が愛し合うこと。それそこそが神を 愛にする…らしいです。 さて思い切り宗教の思想でしたが、 わたしもあなたも世界の一部であるから、わたしはあなたで あなたはわたしなわけです。 万物は一なわけで、一は万物です。 どの人がどんな宗教だろうと、無宗教だろうと 敵だろうと仲間だろうと身内だろうと 良い関係を築きましょう。 きっと良い世界になりますよ。絶望ではなくて希望ですね。 今は世界も大変なことになってきました。 世の中が大変なときこそ お互い親切にしましょう。やっぱり最後は愛なんですね。 もちろん、それは慈悲でもありますよ。 細かいことはもういいでしょう。 私とあなたがいて共同体となる。 攻撃されたからって攻撃していいわけではないですよね。 みなさんごめんなさい。 「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、 ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の 真理である」ダンマパダ。 「何事にも時があり。 愛するとき、憎むとき 戦いのとき、平和のとき。」 今は平和が一番です。 ここまで書いてきて質問者様のご期待とずれているかも と感じましたが、せっかくなので投稿させてください。 少しでも参考になったら嬉しいです。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/11 23:08 回答番号:No.18 |
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回答 |
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| 回答者:miko-desi | 親切を心掛けてはいないのですが、喜んで貰えること、喜びを分かち合える人との出会いはいいものです。本心から言ってると思ってます。 サービス精神とホスピタリティ、そしてボランティア精神は全く別なものです。 サービスは従事者が主人に対価を求めて行います。 ホスピタリティは主人が相手の個性と互いに感動し合うことを求めて行います。 ボランティア精神とは自立支援です。つまり手を貸さずとも困っている人が自由に生きられる社会を目指し対等な関係を作ることです。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/11 19:17 回答番号:No.17 |
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回答 |
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| 回答者:soudan-ari | 問題は解決したようにも感じますが。 そこで、気になった点だけ。ご主人も含めて、実家なども同じ宗教のようですね。今もそうでしょうか?そして、ご自身は、現在無宗教・・・。 現在のご家族の状況が判らないのですが、ご自身だけが止めたのであれば、心苦しい状況とも取れますし、止めた理由が同じ信仰者であれば、人間関係にシコリが残るのは当然と思われます。 さて、私は保育士や社会福祉は余り詳しくありませんが、宗教から分離する傾向にあると思っています。高齢者のケアにしても、宗教関係している場合は歴史が深くかかわっていると思います。宗教だけでは、精神科の治療が出来ない事と同じように、接点はあっても行為としては分離されるでしょう。保育士さんが個人的に信じるのは自由でも、職員にも特定の宗教に拘るのは、実際はあったとしても可笑しなことです。法的にも教育法人とかの違った枠組みがあるでしょうから。個人の経営者が、特定の宗教を取り入れる事はあるでしょう。 同じ経営者が、業務をまたいでいる場合。例えば医療と宗教が混在するケースとして、高齢者の介護施設や末期のがん患者などが考えられます。痛み止めが処方される(マリファナなど国際的な規約)ようです。医療としては医学を、心療法としては宗教的なケアをする場合はあると思います。でも行為としては、資格を持った同じ人が行う場合でも、別な行為でしょう。信仰を持った人が信じて行う行為でも、他の行為と矛盾すべきでないと思います。矛盾する見解の宗教には、NO(宗教行為の自由を)と言いましょう。強要するのは、もはや宗教にあらずと私は思います。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:経験者 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/05 12:19 回答番号:No.16 |
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回答 |
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| 回答者:arayata333 | すみません。 回答ナンバーNo10ですが、 No7の回答へのそちらの>背景<についての切々としたコメントを読むまえにNo10の回答をしてしまいました。 ワーキングプアーの身で忙しく、かつネット音痴なため(会社のパソコンを使わせていただいていて、メールが届かない形でこちらを利用しているのですが、その設定が自分で出来ない。) ついあせった形となってしまいました。 * ここは、私自身の子供の頃のある体験談をまず語らせていただきます。 もともとは並以上に頑丈でもあった私の体は 子供の頃のある時期に、ある大人からのいじめを受け、すっかり衰弱していきました。 小児喘息にかかり、それがやがて気管支炎や重い肺炎にもつながり、わたしは何度も死の床をはいずっています。 その大人は学校の先生だったのですが、 やがて私は その先生と同じような歩き方をしてる大人を通学電車にて見つけるとさっと逃げ出すようにもなっていたのですが、 親はというと、学校の先生がそんなことするはずないということで、 信じてはくれませんでした。 病気で衛星室でひいひい言ってるときにすっ飛んできたその先生に雨の中放り出され、 財布もなぜか持ってなかったようで、その雨の中を電車の線路沿いに家までずぶぬれになって帰った時には、 家につくなり大声で泣いてしまいました。 でもそんなふうに泣いて訴えても 親にはいじめなんてあるはずないとしか思えなかったようなのです。 孤独は 私の心を蝕み始めていました。 そんな時に 私はある信頼できる友達に自分がその先生をどれだけ憎んでいるかを離しました。 生まれて始めて人への憎しみを感じてるということをせつせつと話したのです。 でもその子にしてみれば 当人ではないので後から考えればそれは当然の答えだったのでしょう。 「 どんな時にも人を憎んじゃいけないよ」 もちろん普通ならば それは、わたしもよく理解できたことだったでしょう。 しかし、その時の私の心の内は、 これは言葉にできないのですが。 ??????????????????! でしかなかったのです。 なんで?解かってくれないのだろう?? それから 私の心は本格的に孤独の真っ只中に入ってゆきました。 どうなったと思いますか? やがて、私は とうとう気が狂う体験をします。 二度ほどです。 詳しくは ここでは略しましょう。 ただ、話のつじつまがあうように 書いておきますが、 そこまでぎりぎりの地獄を見て、 そこまできてやっと、親も何かに気がついてくれたのです。 転校させてくれ、そしてその転校先の学校から 大自然の中のとある虚弱児施設に入ることができ、 その学校のおおらかな明るい先生方や、たのしい友達たちのおかげで私は あぶなく廃人となって死んでゆく運命から脱出できたのです。 >愛情と憎悪を同一の対象に同時に抱いてしまうなど…< ここで言いたいことは、このとそちらの文のうちの>憎悪<の部分です。 それは何かの精神的はショックを意味するかと思います。 そしてそういう時には どうしてもそうなってしまう感情になってしまう感情です。 ですので、それはそういうものだとあなたの認識に織り込無済みにしてください。 そうしていいことだと思うのです。 私たちは 弱い生物であり、そこからしか出発できないということなのです。 もう一つ そちらの「背景」については、回答してみたいことがあるのですが、 まずは、 それは そういう状況になればほかの人だって同じようになってしまうかなり人間全般の弱みを関る感情だということ、 けして気落ちしないことをこころかげてください。 病気だなんて思わない。 鬱ぐらい飲み込んでやれ^^。 大丈夫。 あなたなら。 (文章に思索の重みがありますから、文は人なりです。) みなさん すばらしいアドバイスをくださってます。 あとは自分を信じることだと思います。 信じていいんです。 気が狂ったことがある私が保証します^^。 これは病気なんてモンじゃないですよ。 まったく別な意識の世界に入ってしまうことです。 動物の意識とすらそれは似ています。 それをいちいち覚えてはいるので はっと気がついた時は 正直言って子供ながら みじめさの極地と思いました。 記憶ははっきりしてるのですから、今自分がどうなってたのかこどもだって解かってしまいますからね。 もう なにもかもおしまいなんだ。 でも そんな地獄にも 光はやってきました。 いま、あなたは実際にはとても書きがたいような何かを抱えてもいるのかもしれません。 神ならぬ凡人にそんなことわかりません。 でもどんな時にも 希望が来る時には来ます。 今がその時なのかもしれませんね。 ほんのその兆しかもしれなくてもです。 今回は以上です。 機会があれば、また、続きを書かさせていただきますね。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/04 20:25 回答番号:No.15 |
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回答 |
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| 回答者:bragelone | 横からですが あえて投稿してみます。 ○ わたしたちは人を愛しその欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならない。 ☆ こういう方針で歩んでいれば 親切を心がけるか否か / 実際に親切にするかしないか / 人を助けるのかどうなのか / そうして それらを規定しようとする宗教・道徳等の規範 これらから自由であることが出来ます。いかがですか。 |
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| 種類:回答 どんな人:経験者 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/04 10:57 回答番号:No.14 |
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回答 |
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| 回答者:cyototu | #11です。書き足りないことがあったの足しておきます。 そこで書いたことでもお判りのように、悲しいかな私の幸せの基準は私の心の中に在るわけではなく、私が心を尽くした相手の心の中に在るのです。ですから、私の幸せは相手任せで、その方の目を気にしなければ幸せになれないという性を私は負っているようです。したがって私がどんなに幸福を追求したところで、相手がそれを受け入れてくれるかくれないかという全くの運で私が幸福になれるかどうかが決まってしまうのです。 聞く所によると、幸せを自分の心の中に見つけることができる方もいらっしゃるとのことですが、私にはそのようには出来ないことを経験で悟っております。まあ、人事を尽くして天命を俟つ、という所です。でもそのように幸せになるって運任せかと悟ってしまうと、幸せって以外に身近な所に在るような気もしています。相手に喜んでもらえることをするだけでよいのですから。ですから私は自分が幸せになりたい一心で、機会があったら人に親切をしようと心がけ、自分の幸運に感謝できる時がくるチャンスを増やそう努力しているのです。もちろん、気分によってそんな努力が出来ない時の方が圧倒的に多いですが。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:経験者 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/04 03:30 回答番号:No.13 |
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回答 |
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| 回答者:hamakkotarou | 親切にも色々あると思います。 自分は普通のことをして相手が親切だと感じること。 自分のことを親切だと思わせるために相手に親切の押し売りをすること。 他にも思いつくことはあるかもしれません。 自分の出来ることはしたほうがいいでしょう。 ただそれは親切だからするのではなく、いま自分が出来ることだから するだけのことです。 それを親切か親切でないかは自分の考えることではなく相手が自由に 考えることです。 いま自分がやりたくないことを無理をしてすることは、自分のことを 親切だと思わせたいがためにしているだけのことだと思います。 何もしないで放って置ける親切もあるのではないかと思います。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/03 22:41 回答番号:No.12 |
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回答 |
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| 回答者:cyototu | 私は無宗教団体派ですが、自分の狭い経験から「私は人に親切にすること以外に自分が幸せになるこは出来ない」という、とても偏った意見を持つに至ってしまいました。自分が心を尽くした方達から「ありがとう」と言われると天にも昇る幸福感を味わえることに気が付いたのです。もちろん美味しいものを食べた時も、前から欲しいと思っていたものが手に入った時も、また、何かの願いが叶った時も、それなりの喜びを感じましたが、その喜びなんて上で述べた喜びと比べれば、そんなもの全てを失っても良いくらいです。私はこの幸福感を味わいたいので、これと決めた方に心を尽くして、自分ではなく相手を喜ばせることに全力を尽くす努力をして居ります。 ですが、それを果たして不特定な一般の方にまで心を尽くせるかと言われると、自信がないどころか、そんなことは私には不可能でしょう。ですが、私のようなとるに足りない者でも人の役に立つことができることも在るのだという束の間の幸福感を味わいたいので、出来るときには困っている人に手を貸すことも在ります。 若い頃にヒルティの『幸福論』を読んでいたら、「良い行いをするにはそれを自分の習慣にしなければ駄目だ。いちいち良い行いをするのかしないのかをその場の状況で考えながら決めていては良い行いをする機会を失ってしまうことがあるからだ」と言うようなことが書いてあって目から鱗が落ちたような気がしました。今の私は、彼の最後の部分を「幸福感を味わう機会をしなってしまうことがあるからだ」と理解しています。多分質問者さんはヒルティのいう「習慣」を「惰性」と表現しているようです。ヒルティに言わせると「惰性」にすることが本質だと言うことのようです。 ですから、私は自分が幸せになりたいので、やはり人に親切にした方が良いのかなと思っております。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:経験者 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/03 22:36 回答番号:No.11 |
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回答 |
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| 回答者:arayata333 | 1、<他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> 宗教では、たしかに昔だけでなくて今の時代まで尾を引いている感じで そちらの言われているような“善いことをすれば天国にいける。 極楽にいける。 あるいは現世でも利益がある。”とかいった子供じみたしつけみたいな感じでの教えとかもあったりします。 にんじんをふらざげて 善というゴールにウマを走らせるみたいで、 これこそちょっと動物レベルのニオイがします^^。 また キリスト教でも 原罪という考えで人間の罪をとらえていますが、これは哲学ではおそらく現代にては否定されてるはずの考えです。 神の知性は すべての因果を知っているのですから神にとってはどんな悪人もそうなってしまった原因をとことん知っていて それこそ「罪を憎んで人を憎まず」の当体のような知性なのですから、 ちゃんと神とはと考えれば、罪など最初から存在しないということがわかります。 神にとっては、と考えてもいいことです。 人間にとっては生物でもあるのですから 苦しめられればその悪を行うやつへの憎しみは起こってしまいます。 ただ、神を信じることが出来なくても、 どんな悪人にもその原因があったという知性を働かすことで、私たちは怒りとかを越えて赦す魂をもつかむことは出きるようになっているかと思います。(怒りや苦しみは悲しみの渦中にてはなかなかむずかしいでしょうが。) そこは修行しだいでしょう。 償いのために善をというのは、 ほんとうは、社会の全員が過去にとらわれないで善の方向へ向かえるような教育体制がそこにあれば、それで済む問題ですから、 むしろ悪人をそのレッテルで見たりしばったりするのはその人間の度量の無さを意味するだけだと思います。 そういった面は 宗教にとらわれる必要は全くないと思います。 むしろ宗教の方が未熟だと思っていいことだと思います。 宗教の有無にかかわらずすこしでもでっかい大きな心をもちま笑。 あと、宗教の作り出す善への進めには 無理やり性とでも言えてしまうようなものがあったりするのも問題です。 道徳、あるいは最高道徳とも言われる愛を至上の価値とするあまり、それを強要しすぎるのです。 ほんとうは、苦しいことや楽しいこと等の積み重なりのうちに、人への愛情は準備されてゆくものと言えます。 ただ、これも経験=愛への階段とうわけではないので、 ここに感動しながら成長してゆく 感性の成長を考える必要があるところなのですが、 ともあれそうした自然な成長を飛び越えて 無理やりに善を強要すると 心の内側にはもともと育った善の心も破壊されてしまうという いわゆる真心と偽善との分裂の問題が起こってしまうのです。 そちらの場合も、この理由から 最初宗教から親切心を学んだせいで 宗教を離れた地点で不自然さがなくなってもいきつつ、 真心は何かむしろ阻害されていたという経過をだどったのかと思います。 文面全体から受ける感じでは、 あなたはステキな保育士に成れる感じを受けます。 がんばってください。 かなり相手に寄り添った保育の出きる方であるかと思いますよ。 2、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?> 人に親切にすると 喜んだ顔が見れるしうれしくなる時もあるし、それがいつもうれしくてしかたのないような人もいると思います。 お返しを暗に求めてる時や、それをいつも腹に隠し持ってる^^ような人もいるでしょう。( わ わわわたし自身も こここころあたりがあるるるところでですす。 ハズカシイ!) 私も 昔は、あらゆる恥ずかしい未熟さをいっぱい持ってました。 でも純粋な親切心は、いつしか芽生える時が来ます。 感性さへ磨いて常に心を豊かにしようと努力していればいいんです。 日本人なら季節を肌で感じたり、 雨や風や竹藪の風の音を静かに聴いてみたり 思い返してみたり…。 本物の歌とか音楽を虚心坦懐に聴いてみたり、 川原の草いきれの中で、ドテっと寝転がってみたり、 自転車が好きならば 自転車で旅をしてみたり、 おもいっきり楽しみながら感性を磨いていってみてください。 子供にも けして受験のみ、あるいは道徳のみの押し付けではなく、スポーツや大自然を愛せる心をはぐくんであげ、またそれを育てるような環境をいっしょに楽しむことをこころがけて、 ごいっしょに成長してゆけばいいのだと思います。 いつまでも 心の奥底から愛していられるように…。 3、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 4、<宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> 動物が人間の脳に成長した時に一番大きな変化をしたのは「自他、物事をみつめる目」を得たことです。 ここでは詳しいそのへんの私の考え略しますが、 ともかくその最初には動物のように自分の生存のためにしか仲間をも愛せかなった狭い枠を脱出し、 はじめて人間と人間として「友」として見たのです。 しかも、 星も実は この宇宙で始めて「見る」存在が生まれたのです。 簡単に言いますが、これが感性の始まりです。 無味乾燥な宇宙に意味とか価値が その言葉以前に生まれた瞬間です。 始めて、その生物は星を見上げて 別の生物と目と目を見交わします。 この青い軌跡の星に、その時、そういう脳が生まれたということです。 人間のみにある「笑い」という希望の微笑みも、その時誕生したわけです。 赤ちゃんは最初 オギャアアアアアアアアアアと泣いて生まれますよね。 その時には、なんと猿以下の脳しかまだ無いそうです。 でもそれから人間の赤ちゃんはいきなり進化の過程を進みだし猿達の脳をはるかに越えてものすごいスピードで成長します。 始めて赤ちゃんが笑った時のこと覚えています? 始めて目と目が 微笑み合ったような通じ合えた瞬間、 わたしは、それが本当の誕生日だとさへ思ってしまうのですが、 そのやすらかな目は「希望」でありかつ人間のふるさとでもあるかと思うのです。 人間は 「見つめる」脳によってやがて「言葉」も獲得しますが、それが文明を生んだとはいえ 嘘をつける脳力とかも手に入れてしまいます。 複雑な頭となり 真心の世界を忘れていきます。 が それはすべて、おそらく赤ちゃんや原初の人たちのような弱さを越えたもうゆるぎない新鮮な知能とともにある「ふるさと」をもう一度手に入れる過程なのだと思います。 《他人への親切心が薄い。 分け隔ての無いおなじ人間へのリスペクトを普段忘れている、あるいは思い出せない。》 これは、 これは あなただけの問題ではなく、 人間が文明が抱え込んだ魂のうずきです。 動物レベルにもどったということではありません。 うずきつつ、やっぱり人間は成長しています。 そこを哲学していってみてください。 あたらしい世代の命たちとともにです。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/03 21:52 回答番号:No.10 |
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| この回答への補足 | arayata333様 重ねてのお返事ありがとうございます。 現在少し落ち着いていますのでゆっくり読ませていただきました。 大変心が安らぎました。安眠できそうです。 >ただ、神を信じることが出来なくても、 どんな悪人にもその原因があったという知性を働かすことで、私たちは怒りとかを越えて赦す魂をもつかむことは出きるようになっているかと思います。(怒りや苦しみは悲しみの渦中にてはなかなかむずかしいでしょうが。) たいへん参考になります。わたしの場合逆恨みというか、運命を呪いたい気分のときに怒りの矛先を間違って主人に向けてしまうみたいです。(そうなっている時の自分は別人のようで、そこから抜け出しているときには、平気です。自分が2人いるような感覚です。) 自分の歪みも原因があるのだから相手にも何らかの体験があったと考えればよいのですね。主人は過去を引きずっていないと自分では言っていて、自分の意志で生きてきたと、言いますがやはり人格的な問題はあると思います。彼の家族の中で一人だけ浮いて性格が突出して攻撃的だったり自制心が弱いのはそのせいだと思います。(彼の家族は全員信者です。) >ほんとうは、苦しいことや楽しいこと等の積み重なりのうちに、人への愛情は準備されてゆくものと言えます。ただ、これも経験=愛への階段とうわけではないので、 ここに感動しながら成長してゆく感性の成長を考える必要があるところなのですが、ともあれそうした自然な成長を飛び越えて 無理やりに善を強要すると心の内側にはもともと育った善の心も破壊されてしまうという いわゆる真心と偽善との分裂の問題が起こってしまうのです。 わが子にもさまざまな体験をさせてやり、感受性や愛情の芽生えを助けてやりたいと思います。 自分は教理と経験の両面から育まれましたが、偽善を感じたこと、愛をくれる場所を失ったこと、また離脱は悪人を意味しますので「もう何のため誰のために良い子である必要もない」と自暴自棄になっていたため尚更でした。そんな自分を嫌悪したため友人たちに接する際取り繕うのが苦痛でした。(取り繕えなくなっていましたが…) >人に親切にすると 喜んだ顔が見れるしうれしくなる時もあるし、それがいつもうれしくてしかたのないような人もいると思います。 笑顔を見ると嬉しくなって…それだけで幸せで。そんな感覚を思い出しました。 >おもいっきり楽しみながら感性を磨いていってみてください。 >子供にも けして受験のみ、あるいは道徳のみの押し付けではなく、スポーツや大自然を愛せる心をはぐくんであげ、またそれを育てるような環境をいっしょに楽しむことをこころがけて、 ごいっしょに成長してゆけばいいのだと思います。 いつまでも 心の奥底から愛していられるように…。 私自身が自信喪失して「自分には最低限食べてゆける能力すらないから生きていくのが大変」と感じていたため、楽しみは自活力をクリアした上で許されるデザート的なものと思い込んでいました。(私って変ですね!)でも子どもにとっては感性を刺激する遊びこそ主菜のようなものですね。大切なこと気付かせてくださり感謝します。 >始めて赤ちゃんが笑った時のこと覚えています? >始めて目と目が 微笑み合ったような通じ合えた瞬間、 わたしは、それが本当の誕生日だとさへ思ってしまうのですが、 そのやすらかな目は「希望」でありかつ人間のふるさとでもあるかと思うのです。 まさに今朝でした。泣きそうになりました…旦那には笑うのに私には笑ってくれないなぁと思っていたので。(新生児なのでまだ条件反射かもしれませんが、目と目が合いしばらくの間私と一緒に笑っていたんです。感動でした) >これは あなただけの問題ではなく、 人間が文明が抱え込んだ魂のうずきです。 自分が異常だと思うと怖くなりますが私だけの問題ではないのですね。 孤独の病巣ではなく他者と共に考えることのできる材料なのだと思うようにしますね。 arayata333様他にもたくさんの方のコメント本当にありがとうございます。心強く、温かく、皆様のご親切を感じ貴重な体験になっています。 ゆっくりとそれぞれ拝読させていただきます。お返事がすぐできず申し訳ありません。 |
| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
回答 |
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| 回答者:magga | <<以下、この場をお借りしまして他の回答者の方々も私の背景を聞いていただけますでしょうか…>> はい。 <<「宗教がないと親切に出来ないかどうかは、冒頭で述べた通りで、環境や意識によってカムフラージュされていた本当の自分の程度が露出したというだけの事です」そうかもしれません。優しい子と周りから言われてきましたが親は私は態度が大きいと思っていたようです。(親に対して理想を求めていた傾向がありましたから、子どもの分際で生意気なことを言っていたような気もします)>> 信仰系の宗教の利点は、手っ取り早く道徳的に迷惑をかけにくい人間にすぐに持っていけるところがあげられると思います。 うまく穏やかに優しく問題なくいく人もいますが。 抑圧や自責の念にとらわれやすい人はいずれ感情的に苦しくなりますし、根拠のないことを信じることはかなり難易度の高い事と思います。逆に反証する根拠のほうが多く見つかったり…。現実との矛盾で苦しんだりもしますね。 <<おとなしく繊細だと言われる反面、頑固で強情なところもあります。自己愛性の問題かもしれません。なにせ自分や他者への認識のバランスを保つことが出来ません。愛情と憎悪を同一の対象に同時に抱いてしまうなど…>> 人間などそのようなものですよ。 多くの人が 「私は正しい。他は間違っている。」 「私の責任ではない。他者の責任だ。」 という感情を少なからず持っています。 それに気付いた人が、その道を発見し、その性質を徐々に直していくのだと思います。 そのような人を智慧の人というのだと。 「自業自得」は結構明るい考えなんですよw 自分の行為に結果が無かったらそんなに暗いことは無いでしょうw 訓練しても身につかないなんて…。 <<私は同時期に親に対しても失望のようなものを感じていました。今は親のことだけは信じられるといった心境にまで変化しました。(宗教の理屈抜きでの純粋な愛を感じるからです)>> すばらしいことです。心は結構自分勝手なものですから、徐々に焦らずやっていけばいいと思います。 <<私は結婚して大分情緒的に落ち着きましたが、現在、自分の主人への愛情の有無に確信が持てません。性格や思考が対照的なため、はっきり言って親しみはなく、他人のように遠くに感じます。>> 試しに、一度、理性で周りの人の「認める所・尊敬できる所・恩恵を受けている受けたところ・感謝できる所」をノートか何かに書き出してみてください。つまらない小さなことでも思いつく限り。 みんなここにこだわりますが、執着による感情なんてこだわらなくても善いと思います。そのこだわりは自分も他人も苦しめるものですから、無ければ無いほど善いと思います。 その相手を認める・尊敬・感謝出来ただけ周りを本当に愛していると言うことだと私は思いますよ。その気持ちが徐々に育てば自然と手を伸ばしたくなるはずですから。 どうしても嫌いな人はその理由を書き出し、その項目をどんどんシンプルにただの悪口や感情的になってる部分を削りながらまとめていくと、「なんだ、このポイントが自分と合わないだけだ」と自分の中で折り合いがついたりしますよ。 みんな合わないポイントなんてありますからね。 その結果でお互いに嫌にならないような距離感を探していけば、自分のためにも他人に為にもなりますからオススメです。 上記したことや慈悲の念(布団で寝るまで心の中でと、目覚めてからがオススメ)を熱心に実践すれば慈悲喜捨の心や正しい見方が育ち、徐々にどうしても合わないポイントも感情的なところは淘汰されていくと思います。 興味があって納得がいったら納得がいった範囲からやってみてください。結構早く結果が出てくると思いますよ。 <<私は自分がこれまでも、今もこれからも愛情深い人間だと感じていたかったです。でも現実は恐らくそうではないのです。>> 気付けたのですから改善できます。気付かない人はどうしようもないでしょ。すばらしいことですよ。 ただ後悔や自責は出来れば捨てたほうが善いですよ。それ自体が怒りの感情で闇に引きずり込みますから、自分の心に騙されないようにしましょう。心は刺激的な感情が好きですからね。 以前のことは開き直りましょう。 開き直ったほうが成長できますから。 問題は以前ではなくこれからですからw <<まず、身内である主人や子どもを愛することから学ばなければならないようです。>> 自分を愛することも忘れないでくださいね。生命の基本ですから。そして自分が幸福であるためには身近にいる人の幸福が多大な影響を与えますから自然とそちらのほうに赴く。 <<自分でも異常だと思いますが、そんな風に幸せを邪魔する妄想癖があるのです。>> 実践と共になくなっていくと思いますよ。 ヴィパッサナーは妄想をカットする能力を育みます。こちらもオススメです。 <<一度に大きなストレスとショックを味わった経験がトラウマとなっているため、人生とは裏切られるものだという被害妄想が潜在意識に根付いてしまっているのかもしれません。こちらでのやり取りを通じてそのことに気付きました。今後こうした根本の問題に向き合っていこうと思います。>> 悪い原因を無くし、善い原因を育めば嫌でも幸福になります。 お互い精進いたしますようw |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/03 10:40 回答番号:No.9 |
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| この回答へのお礼 | ありがとうございます。自然に涙が出てきて、頭を締め付けていた何かがほぐされていくように気持ちが楽になりました。 逆戻りしないうちに、これまでアドバイスいただいたことを少しずつ心掛けてみます。 欲張りなのでまた質問を載せるかもしれませんが… 自分は病気なんだと思って医者にかからないとだめかなとか、かかっても治るのは無理かなと思っていたところでした。少し希望が見えてきました。感謝いたします。 |
回答 |
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| 回答者:Ryo_ss | 私は,人に親切にしたいと思って行動したことはありません。 たとえそれが他人からは親切な行為に映ったことがあったとしても,自分自身でそう思ったことはありません。 私は,私がしてもらいたいと思うことしか相手にはしません。 私は“されたいことはしてあげるべきであり,されたくないことはしないべきだ”という考えで生きているので“モットー”等といわれると大変違和感があります。 ですから,私が誰かに何かしてそれに対する礼を相手から述べられることがなくても全く何とも思いません。 私が勝手にそうしたい(私が相手ならそうされたい)と思っただけのことですから…。 ちなみに私は宗教家ではありません。 “私は明日死ぬかも知れない”と常に思っているので宗教自体にそこまで興味がないです。 私がこう思うようになった経緯ですが…。 “自分がされたくないことはするな”といわれたことがあるからでしょうか。 あと“君のために…”といわれることや言っている人を見ると大変嫌悪感を持ってしまうからかも知れません。 他は,特別思いつかないです。 動物の話ですが,異種族でも私は相手を思う気持ちが芽生えておかしくないと思いますよ。 犬が人間を助ける話などよくある話です。飼われてなくてもあるようですよ。 あと,育ての親は異種族だとか…色々私は聞きますがそれとは違うのでしょうか? 私たちが知っている世界などごくごくわずかなのですから,“絶対”と言い切ることは何事においても出来ないと思います。 子供に対してですが…。 親切心を諭したいのなら,相手の立場に立つように促す方が理にかなってると思いますよ? |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 17:20 回答番号:No.8 |
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回答 |
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| 回答者:nande11ji | 環境による惰性というのは確かにあると思います。その中で出来ていたことが他の環境でもできるかどうかが、本当の利他的精神をはかるうえで一つの尺度になりうるのではないかと思います。 ですので、その環境を離れて一般的環境に入った時に利他的な思いが減退したら、それは利他的精神がまだまだ甘かったという事なんだろうと思います。 でも、だからと言って無理して気が進まないことをやる必要はないと思います。善の動機で生活する事は大事と思いますが、無理な事をするとそれはただの我慢大会であり、心には良くはないと思います。自分に出来る範囲で頑張って行くのがちょうど良いのではないかと。 私は親切とは人に対して積極的に働きかける施しであるだけでなく、人に配慮して害となる事をしないという事も含んでいると思います。総じて、人にとって害となる事を避け、人にとって善となる事を施すよう努めるという事です。ただし、その善悪の判断基準は自己の尺度によってしまう訳ですが、なるべく相手の事を正確に把握し客観的に考えるという、才能も必要であると思います。その才能とはもちろん経験によって鍛えられる類の事ですが、その鍛錬も利他的な真心を込めた生活をしていないとなかなか鍛えられないという気がします。 それで、人に対して親切にしようと思う想念は何か心の奥底から湧き上がってくるエネルギーのような気がします。それは生まれつき備わったもので、そういった動機の部分は別段鍛える必要性を感じません。その気持に自然に従って生活すれば丁度いいのではないかと思います。 とはいったものの、所詮は質問者様と大して変わらないような利他的精神のレベルであります。 信仰思想はない訳ではありませんが、それを抜きにしても言えることと思います。 利己心や自己満足は利己心や自己満足に過ぎず、利他的精神(親切心)とは違うと思います。人の中には利他的精神の湧き上がるエネルギーが微弱で、世の中偽善しか無いんだと言い張る人も居たような気がしますが、私は自己洞察でそうは思いません。 宗教がないと親切に出来ないかどうかは、冒頭で述べた通りで、環境や意識によってカムフラージュされていた本当の自分の程度が露出したというだけの事ですが、だからと言って背伸びして無理な事をするのは良くないと思います。あなたのおっしゃる通り、凡人で出来る事は必ずいつか限界が来ます。あくまで自然体で生活するのがよろしいかと。 お子さんには、自分の心の中の自然な善の動機によって生活する事を教えたらいいと思います。お子さんの心を信じてあげれば自信にもつながります。最初から「こうしなきゃだめ」という否定的な教え方では自信のない子になってしまいかねません。 ただし、それと同時に相手にとって何が親切になりうるのか、それを最善を尽くして考えることこそ、本当の思いやりなんだという事も盛り込んでおきたいところですね。そういったことも自然な善の動機で出来るんじゃないかと思います。・・というか信じてあげることです。 何が善で何が悪かといったことは厳密には分かりません、あくまで意識の問題なのであしからず。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 17:05 回答番号:No.7 |
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| この回答への補足 | ご回答ありがとうございます。 以下、この場をお借りしまして他の回答者の方々も私の背景を聞いていただけますでしょうか… >宗教がないと親切に出来ないかどうかは、冒頭で述べた通りで、環境や意識によってカムフラージュされていた本当の自分の程度が露出したというだけの事です そうかもしれません。優しい子と周りから言われてきましたが親は私は態度が大きいと思っていたようです。(親に対して理想を求めていた傾向がありましたから、子どもの分際で生意気なことを言っていたような気もします) おとなしく繊細だと言われる反面、頑固で強情なところもあります。自己愛性の問題かもしれません。なにせ自分や他者への認識のバランスを保つことが出来ません。愛情と憎悪を同一の対象に同時に抱いてしまうなど… 宗教心があった頃は何をされても人を憎むということはなかったのに、属していた組織宗教に幻滅して鬱を患い、以来性格が酷くなりました。(元々持っていたマイナス要素が肥大して前面に表れました。)親は反動かなと思って見ていたそうです。私は同時期に親に対しても失望のようなものを感じていました。今は親のことだけは信じられるといった心境にまで変化しました。(宗教の理屈抜きでの純粋な愛を感じるからです) 私は結婚して大分情緒的に落ち着きましたが、現在、自分の主人への愛情の有無に確信が持てません。性格や思考が対照的なため、はっきり言って親しみはなく、他人のように遠くに感じます。 なぜ結婚したかというと彼の家族が私の親と同じ宗教だったからです。 今後の実家同士の付き合いに配慮して、この条件に合う彼を選びました。主人は純粋に私という人間を好いて結婚してくれました。計算高い下心があったのは私だけです。結婚を急いだのは、当時卒業を控えていた私の鬱が酷く、まともに就職ができないと感じたからです。(これは親には言っていません) 私は自分がこれまでも、今もこれからも愛情深い人間だと感じていたかったです。でも現実は恐らくそうではないのです。 宗教をやめ、仲間や信仰や人生への意味づけを失っても、愛だけは財産として受け継いでいたかったのに… まず、身内である主人や子どもを愛することから学ばなければならないようです。(子ども※新生児です、 は主人似です。誰が見てもそう言われます。)私は主人とは共感箇所が少なく解り合えないという寂しさを常に抱えています。同じ宗派にいたのだからそれなりに合うはずだと思っていたため、余計に淋しいです。 この子を見ると主人と重なり、寂しさを感じてしまいます。この子とも、心は通わないのかな、って…。自分でも異常だと思いますが、そんな風に幸せを邪魔する妄想癖があるのです。 一度に大きなストレスとショックを味わった経験がトラウマとなっているため、人生とは裏切られるものだという被害妄想が潜在意識に根付いてしまっているのかもしれません。こちらでのやり取りを通じてそのことに気付きました。今後こうした根本の問題に向き合っていこうと思います。 今はちょっとここで立ち止まってしまっているので、落ち着いているときにまたゆっくりと皆様のご意見を拝見させていただきます。皆様のご回答に感謝いたします。 |
| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
回答 |
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| 回答者:yukkinn66 | こんにちは。 20代後半の三児の母です。 先日は、ありがとうございました。^^ ><他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか? いえ、私は寧ろ「宗教/道徳/倫理。。。」やらの方が「後付け」だと思っております。 >無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか? はい。^^ >その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> 経緯。。。初めはやっぱり「親の躾」だと思います。 「自分の嫌な事を他人にしちゃいけない」「人の身になって考えなさい」って、信仰の有無を問わず、「普通の/不可欠の躾」だと思いますが。。。? で、「親に言われた通り」しているうちに「自分なりの価値」を見出して、「あ!楽しいじゃん」となり、今に至る。。。かな。 ><結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?> 「繰り返し」によって見つけるものかな。。。と。 それと、自分自身の嬉しさ/楽しさ等の経験を積み重ねて、そこから後は「想像力」の仕事かも知れません。^^ ><身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 自分に余裕が無ければ出来ない事だと思います。 あまり、動物レベル、とは思いません。 ><宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> お子様はまだお小さいのでしょうか? ちょっとものが判って来て、「お母様/お父様の真似」をし始めると楽しいです。自分がいつもしてもらっている事を、今度はお母様にしてくれたり。。。。お箸を取って「あい!」ってしてくれたり。手を洗う傍でタオルを持って来てくれたり、洗濯物を畳む横でお手伝いしてくれたり(勿論「ぐちゃぐちゃに丸める」のですが。汗)。。。 そんな好奇心や真似っこ、いたずらを「良いように解釈」して、 「わあーーー嬉しいな♪助かるな♪ありがとう!!」と遊びの相手をしてあげる。(小さな子どもに取っては「お手伝い」も遊びのひとつ、ですから。^^) これが始まりじゃないかしら?と思います。^^ やっぱり、不機嫌な顔より「笑顔」の方が見ていて気持ちよいですし。 「最初の動機」には、これで「充分」だと思っています。 後はその「良い思いの繰り返し」が「親切心」やら「良心」やらを形成して行くのだと考えています。 まずは「楽しさ」からでは無いかな?。。。。と。 「遊び」って大切です。^^ お役に立てると嬉しいです。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 15:24 回答番号:No.6 |
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| この回答へのお礼 | >私は寧ろ「宗教/道徳/倫理。。。」やらの方が「後付け」だと思っております。 >>無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか? はい。^^ そうですよね、自分のケースしか見えていませんでした。 あと、主人が「親切」というキャラではないので端的に結び付けてしまっていました。でももしかしたら「彼は親切じゃなかった!」という失望経験が固定イメージを膨らませていたため、彼の持っている優しさにふれても素直に認められずにいたのかもしれません。 >お子様はまだお小さいのでしょうか? 早産でしたが、修正月齢で一ヶ月です。 >ちょっとものが判って来て、「お母様/お父様の真似」をし始めると楽しいです。自分がいつもしてもらっている事を、今度はお母様にしてくれたり。。。。お箸を取って「あい!」ってしてくれたり。手を洗う傍でタオルを持って来てくれたり、洗濯物を畳む横でお手伝いしてくれたり 楽しみですね。先輩ママ友さんの子はすごく笑います。お母さんがよく笑いかけたり話しかけたりしているそうで。私は母親として、心から笑いかける自信がなかったので不安になっていたんです。でももしかしたら杞憂だったかなと思えるようになってきました。ちょっと昔の引き出しから一人で余計な荷物を引っ張り出して「どこにしまおうか」と困っていただけだったかな、と。強がって、悩み隠して、頼っていい人(主人)の存在を、信じられなかったし意識の中で疎かにしていました。 苦しい本心を惨めだなんて思ってちゃいつまでも言えないですし、プライド捨てなきゃ、だめですね。 自分が病気で弱いと見下げらそうでイヤだっていうのはかなりありました。 相手から気付いて聞いてほしいっていう思いがずっとありました。でも言わなきゃ全然伝わらないみたいです。だからプライド克服しないときっとずっと繰り返しなのです…(話がずいぶんそれてしまいました) >「良いように解釈」 そうですね。本心を追求したり裏読みするよりも大事なことかもしれませんね。 >不機嫌な顔より「笑顔」の方が見ていて気持ちよいですし。 「最初の動機」には、これで「充分」だと思っています わかりました!ビデオとかで自分や家族が笑ってるのを見るとほっとしますし。ちゃんと笑えてるじゃない、って。いい循環になる<笑顔>を増やしていきたいと思います! |
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| 回答者:magga | 僕なりに思ったところを書いてみますね。 <<(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。>> 慈悲の冥想はオススメです。人間は多く抱いた感情や思念に心が傾きやすい性質があると思いますから、慈悲の念を多く抱くと徐々に心が広くなっていくと思いますよ。 僕自身今まであれだけ苦手だった、ゴキブリや虫などとはもう友達の如くですからw 蚊も「殺す」と言う選択肢が出てこないようになって来ました。 <<他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。>>> 有る意味無宗教ですw仏教(パーリ語三蔵のゴータマさんの教えたこと)を学んでいますが、その中身は反宗教的な面が強いように感じます。 この中で人に親切にしたり怒らなかったりすることが、いかに自分を守ることになり他人を守る事になるのか、論理的に道徳的に納得したからでしょうかね。厳密にみっちり語られてますから。 物事を理性に落とし込んで、自分なり検証実験を繰り返すうちにどんどん納得がいくと思います。 <<この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。)>> 自己の満足充実感や納得は最初は大きいものでしょうね。しかし繰り返すうちに心に変容を生無と思います。 自己の理性による納得や慈悲の冥想や思念を多く抱くように修習すれば徐々に純粋な慈悲喜捨になっていくように感じます。 <<また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。>> 虫なども慈心を抱く人には迷惑にならないように考えてくれるように思いますよ。いろいろ実験してみてください。 <<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?>> 自分にとって必要な人、自分が執着を持っている人、自分に慈心を持ってせっする人などに対して、手を差し伸べるのは動物として最低限のマナーでしょうね。 人間はさらにもっと広げられると思います。私の嫌いな人も私を嫌っている人にも皆に慈しみの念を持つことが可能と考えます。 <<「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。>> しかし忘れてはいけないのが、生命にとって一番大事なのは自分自身という事実です。その事実を忘れないがしろにしてしまえば、いずれ歪が出てきます。 私の幸せを願う心は根底にあるべきだと思います。 「私」という実感があるうちは。 <<年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。>> 両方あるかもしれませんね。 慈悲の冥想や理性での納得。布施行為(能力財力の布施)の習慣性。(小銭の募金でも何でも)徐々にその行為に満足し喜んで捨てられるように、簡単に捨てられたり実行できることから意識的に行なっていく事で出来るようになると思いますよ。 家族に対する行為も意識的にいつもやらないこと一つやってみるとかゲーム感覚でやってみてください。ちょっと優しい言葉をかけてみるとか怒らないように工夫してみるとかねw <<宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。>> 自分で得たもの「育てた能力や財産」の中から、仕事(能力や財産を元手に皆に役に立つように何らかの物やサービスを与えること)をして得たお金を、「生きていくお金、自分や家族が楽しむためのお金、皆で分け合う分、貯めておく分」と振り分けて堅実にミツバチの如く少しずつ花の役に立ちながら(受粉など自分の能力を与える)花粉(対価)を頂きその対価なかから少しずつ、蟻塚の如くためていく。このようにすれば、まぁ、幸福になると思います。 お金の管理法から使い方、得方、貯め方。皆、お釈迦様の推奨する方法です。 だから子供達は能力を高めて(勉強をして)社会や自然から得た恩恵を返すように、皆に役に立つようにならなければ幸福になれません。 行儀やマナーなども回りに嫌な思いをさせない能力ですし、楽しく会話することも能力です。 役に立つ能力が有ると皆が集まってきますし、協力してくれますもんね。 その中にも稀に善友がいるでしょうからそのような人は特に大事にしなければなりませんね。 善友悪友も見抜いて付き合い方を変えなければ自分の幸福も危ないですから注意が必要です。そこらについては「ブッダの青年への教え」というパーリ語経典の翻訳解説の書籍に詳しく載ってますよ。 お役に立てば幸いです |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 15:14 回答番号:No.5 |
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| この回答への補足 | この回答に補足をつける(質問者のみ) |
| この回答へのお礼 | >蚊も「殺す」と言う選択肢が出てこないようになって来ました。 そこまでの慈悲に達せたら素晴らしいですね! 私は今朝早速虫を潰そうとしてました>< >この中で人に親切にしたり怒らなかったりすることが、いかに自分を守ることになり他人を守る事になるのか、論理的に道徳的に納得したからでしょうかね。 感情が落ち着いてきているので、冷静にイメージしていこうと思います。 >自己の満足充実感や納得は最初は大きいものでしょうね。しかし繰り返すうちに心に変容を生むと思います。 最初はそこからですね。前向きにスタートしていきたいと思います! >私の嫌いな人も私を嫌っている人にも皆に慈しみの念を持つことが可能と考えます。 平等なんですね! >私の幸せを願う心は根底にあるべきだと思います。 簡単に捨てられたり実行できることから意識的に行なっていく事で出来るようになると思いますよ。 はい。まずは赤ちゃんを「人間」として尊重するところから心掛けたいと思います。昨夜主人と話していて反省しました。「私が家に一人でいる時間…」と話していて、赤ちゃんをカウントしていないことに気付いたからです。心が通い合う人間として見れば私自身も楽しくなりますから、必要最低限の世話だけでなく数分、十数分でもスキンシップの時間をもつようにしていこうと思っています。 >だから子供達は能力を高めて(勉強をして)社会や自然から得た恩恵を返すように、皆に役に立つようにならなければ幸福になれません。 >行儀やマナーなども回りに嫌な思いをさせない能力ですし、楽しく会話することも能力です。 そうですね。積極的にすべきことと、してはいけないこととを教えていきたいと思います。親自身手本になれるよう、話し合いながら心掛けていきたいです。 >善友悪友も見抜いて付き合い方を変えなければ自分の幸福も危ないですから注意が必要です。 今私の周りにいる人たちはよい友が中心だと思いますが、付き合い方というのはまだ模索中です。ご紹介いただきありがとうございます。 |
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| 回答者:mmky | [[親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。] 親切にもいろんな段階があるのですね。いろんな段階の根本は福を分け与えるということですね。その心は自分が幸せで自分と同じように相手によくなって欲しい、多くの人に幸せになって欲しいという思いを持つかどうかなのです。ここに智慧がいるのですね。智慧の無い親切は相手を不幸にすることがあるんですね。だから宗教的慈悲心だけでは親切にならないんですね。 むかし、讃岐の国では旱魃で稲作ができず農家は娘を売らなければいけないような状況があったんですね。一時的な親切で食べ物を恵んでも状況は一向にかわらずですね。空海というお坊さんは、村人を集めて来年の稲作はあきらめなさい、みんなでダムを作れば未来永劫助かると説いたのですね。目先のことを考えた人は離反し、未来にかけた人は賛同して満濃の池というダムを完成させたんですね。それから1200年、今もダムは使われています。この例を挙げるのは、智慧がないと多くの人は助けられないということなんですね。(このときの空海さんは宗教家ではなく土木屋さんですね) 会社を創造して社員を幸福にするのも立派な親切なんです。そのために小さな親切を切り捨てるということもあるわけです。本人がどれほどの親切を目指すかによって親切の段階もかわるということでしょう。迷いも生じるんですが。そのときいつも誰かがみていると思えるかが「信仰」でしょうね。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 14:56 回答番号:No.4 |
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| この回答への補足 | この回答に補足をつける(質問者のみ) |
| この回答へのお礼 | >親切にもいろんな段階があるのですね。いろんな段階の根本は福を分け与えるということですね。その心は自分が幸せで自分と同じように相手によくなって欲しい、多くの人に幸せになって欲しいという思いを持つかどうかなのです。 自分が持っているものから分け与えるので、まず自分が持ってないとできないですよね。幸せになるよう、コミュニケーションや思考回路など改善努力していきますね。(昨夜主人に悩み話せました。話さないとわからないから話してほしいといわれました。) >会社を創造して社員を幸福にするのも立派な親切なんです。そのために小さな親切を切り捨てるということもあるわけです。 自分なりの、身の丈にあった優しさの形を持って生きていきたいと思います。欲張りでも出し惜しみでもなく自分も楽しめる形で。 |
回答 |
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| 回答者:yasudeyasu | 無宗教ですけど、人には親切にするようにしてます。 スタートは女の子によく見られたいというところから始まって 特定の人にだけ親切にするとスケベ心を見抜かれますから みんなに平等に親切にするようになります。 そうするうちに周りからも評価され、あの人はいい人だね、という評判が出てきました。 自然とそれが自分の中で気持ちよくなってきた、ということがあります。 もちろん「親切にすること=いいこと」という価値観を持っている人たちと巡り合えた、という幸運があったので自分だけの力とは思っていません。 「利害関係のない人に親切にすること=偽善者」という人たちも今の世の中には多いです。(特に東京) 利益団体がバックについていることがわかっていますので募金はしません。 電車でお年寄が経っていたら、置いた祖母や母のことを思い出して席を譲ります。 道に迷っている人がいたら「何かお困りですか?」と声をかけます。 自分もよく道に迷い不安な思いをすることがあるからです。 この辺は想像力の問題ですね。 想像力を養う為の、お子様の情操教育には本をオススメします。 周りの人の影響というのは大きいです。親がタバコを吸っていれば子供も真似しますし 親がお年寄りに席を譲っていれば、子供も譲るようになります。 今の若い親は電車で空席があると子供を率先して座らせる。 これは良くないと思います。 抱っこが必要な乳児ならまだしも、自分の足で立てる小学生をですからね。 >「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」 >これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。 もともと私には手一杯になるほどの友人はおりませんので、私にとっては上の内容は杞憂にすぎません。 手一杯になったらなったでその時考えます。 最悪の事態を恐れて何も行動に移さないのは愚だと感じます。 親と、何人かの友人とずっと一緒に歩いていければそれで満足です。 いささか自分に酔った文章になりましたが、なにかの参考になれば幸いです。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:自信あり |
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回答日時:08/12/02 14:55 回答番号:No.3 |
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| この回答への補足 | この回答に補足をつける(質問者のみ) |
| この回答へのお礼 | >スタートは〜 みんなに平等に親切にするようになります 私も、子どもにはモテる女性(男性)になってほしいな、と思います。やはり内面大切ですからね…きっかけは何でも良いのかもしれませんね。 >「親切にすること=いいこと」という価値観を持っている人たちと巡り合えた、という幸運があったので自分だけの力とは思っていません。 「利害関係のない人に親切にすること=偽善者」という人たちも今の世の中には多いです。(特に東京) 環境は本当に大事だと思います。体で覚えるというか…。 損得勘定が思考に染み付いてしまうと、同じ基準で他人を見てしまって相手の動機を疑ってしまうことが私もあります。 >祖母や母のことを思い出して席を譲ります。 〜この辺は想像力の問題ですね。 共感能力と親切は比例するのかもしれませんね きっと私はまず旦那や子どもとの共感が不足していたのだと思います 性格は違うけれどもやはり重なり合うポイントはあるはずですよね(反省) >想像力を養う為の、お子様の情操教育には本をオススメします。 はい。思いやりを育むお話を自分のためにも一緒に読んでいきたいです。 >手一杯になったらなったでその時考えます。 実際にそうなってしまって…疲れて、地元に人間関係を置き去りにしてきました。 今でも連絡は取り合いますがちょうどいい距離といった感じです。 使い捨ての人間関係になっては悲しいかな、と思います。 ご回答、感謝します! |
回答 |
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| 回答者:suswm | 少し難しく考え過ぎなのではないですか? 自分が無理な時は無理だし、 余裕があって、助けられる時は助ける。 それは他人だろうが親族だろうが 程度の大きさはあれど、 同じだと思います。 私は未だかつて利己的や宗教的に人助けした事はありません。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 14:43 回答番号:No.2 |
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| この回答への補足 | この回答に補足をつける(質問者のみ) |
| この回答へのお礼 | そうですね。 時と場合により対応を選ぶというのは、矛盾と唱えるほどではないですよね… 少し極端な考え方をしていたようです。 (助けるなら助ける、助けないなら助けない と一律にしてしまうような。なので部分的に助けることは偽善だ、のような。) 無意識に動けることが純粋なのかもしれませんね。 こうと頭で決めずに、自然でありたいと思います。 ご回答感謝します。 |
回答 |
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| 回答者:indoken | 恥ずかしながら、親切を心がけています。 自称 仏教徒ですが、世間的にな意味ではむしろ無宗教でしょう。 (仏像や経を唱えることなどは宗教的に無価値だと思っている) さて、なぜ親切を心がけるか ですが、それは「社会は実は親切で成り立っている」と考えているからです。 「この世は金だ」とか、「競争社会」とか、様々に言いますが、その根本に人助けというか親切というか、そういうものがあって初めて「金と競争だらけの世の中」が成り立っている ということを良く見る必要があると思います。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/02 14:40 回答番号:No.1 |
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| この回答への補足 | この回答に補足をつける(質問者のみ) |
| この回答へのお礼 | ご回答ありがとうございます。 >根本に人助けというか親切というか、そういうものがあって初めて「金と競争だらけの世の中」が成り立っている ということを良く見る必要があると思います。 たしかに子どもも生まれたときから救急士さんや病院の先生、看護婦さん‥たくさんの方々にお世話になっています。そこでできたお友達も親切な方たちです。 これから家庭で守り育てていき、保育園や学校でもお世話になり…社会に入って行けるように助けられて生きているんですね。 社会福祉も社会的に苦しい人たちをサポートしていますしね…。 本来冷たい社会だと思うがために助け合いに戸惑うよりも、本来世の中は助け合う共同体なのだ、と思って生活すればそこに生きている者として助け合うのが自然体になるのかもしれませんね…。実際親切な人に多くめぐり合っているということをもっと認識しなければと気付かされました。自分もそこに自然に帰属意識をもてたらよいのだとわかりました。 人の優しさを斜に構えて捉えていたかもしれません。素直に物事を見られるように心掛けたいと思います。 |