質問 |
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| 質問者:garcon2000 | 「死ね」という罵倒の現代的価値 | |
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困り度:
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そこらへんにあふれかえっている、思考停止的下種根性丸出し罵倒の代表である「死ね」の表現の、その流行の理由についてですが、これは現代が非常にモラル的に醜いということをあぶりだしていないでしょうか。 つまりそれはこういうことです。 現在は「生」に執着するということが、当たり前で常識的であるという価値観が蔓延しています。かつて言われていたような、極楽往生だの冥土の飛脚だの、そういう「死」への誘惑的あるいは魅惑的あるいは肯定的な観念というのは、払拭され、かわりに「生」への執着が取って代わった。ゆえにこの「死ね」の表現が罵倒足りうるようになった。たとえば、戦時中「死ね」といわれて、大して罵倒とは受け取れないはずです。むしろ、それは賛美だったかもしれません。 つまり、現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか? |
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質問投稿日時:08/12/01 19:23 質問番号:4522054 |
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回答 |
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| 回答者:TENNTENNSEVENOK | もうちょっとwまとめ感覚で 多少醜い表現も含まれていますので正直読まなくてもよいです、いや大丈夫と感じたときのみお読みください。 ご自身が質問すると回答者が回答を与えてくれるのでそれに図に乗って おまんまよこせと言う餓鬼レベルの願望が現れてきてるなーというのは大分前から分かっていたことですが、なぜ餓鬼レベルの願望が現れたのかというとやはり無意識の感情がのno12〜14に書いてある内容の形があるからではないかと思うわけですよ なので以前の質問のhttp://okwave.jp/qa4469857.htmlのお礼欄に>それにしても、この「あ、これはちょっと感じてほしい考えだよ」 という問いかけに引っかかる、心の琴線を揺らす人っていうのは、本当に少ないものですねぇ>という文章を書く訳ですよ、つまり自分を認めてもらえない、えなかった、えていない、(どれですかね?)疎外感の補償作用と不満が掲示板に書き込む動機なんですよ、憶測するところ不満は罵倒へ疎外感の補償作用は議題内容へすり変わっているだろうなというところです、なので不満は不満を呈して拒絶しているようで実は「慰めてくれ」というわがまま願望で、議題の哀愁表現は哀愁でありながら自己を重ね合わせているのではないだろうかとこう憶測してみました、悪まで憶測ですのでどう解釈なされも結構です。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/13 03:16 回答番号:No.15 |
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| この回答へのお礼 | まとめてのお礼で失礼します。おっしゃることもっともだと思います。そういう面も大いにあると思いますよ。補償作用を無意識的にもやることは人間ありえるのでしょう。 しかし、ここででもいいですけども、多くの疑問問いかけと言うのは、「こう考えたんだけどなんか世間と合わないな」 ということを表明あるいは解決したいと言うことが多いですからね。人間不変的に、疎外感を補償するこということは多かれ少なかれあるのだと思います。 |
回答 |
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| 回答者:TENNTENNSEVENOK | もう少し勝手に分析させていただきます。お気を召さないのなら大いに飛ばしてかまわないです。 大抵ご自身の感情表現には(攻撃的)憎しみが裏側に見えます、憎しみの反対は誰からも認められない苦しさです、ようはご自身が何らかの外界情報に対してご自身の価値感情を否定された形としてあらわれ侮辱感に似た感情を味わわされ自分の価値観感情が圧迫されるような苦しさというのが無意識に存在するのではないだろうかという気もします、no13でも述べましたが、疎外感のみが原因ではないだろうと文章を拝見していると感じます、価値感情の相違が共感性と不共感性を生み出し、不共感性に対して敵意を抱くということは自分の感情を慰めてくれない裏返しということになるんじゃないだろうか?と思うわけです、なので自分の心の醜い感情を切り離し、不共感性へ投げ込むわけです。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/12 19:43 回答番号:No.14 |
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| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
回答 |
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| 回答者:TENNTENNSEVENOK | >しかし、毎度のように、それを違う次元にのようなことを「無意識的」に行い、補償する作用があるのか?という無意識レヴェルの精神作用については、まったくといっていいほど自覚できない(自覚できないゆえの無意識現象なのかもしれません)という、いたちごっこにおちいっています。「!」っとこれが気づければいいのですがね。> まあ無意識を自分で気が付くのは至難の業で直ぐに気が付く無意識とそうでない無意識がありますからね >また、B次元に行く必要が本当にあるのかどうかよくわかりません。疎外された状況は、なんというか、相手が確信犯的に疎外したというよりも状況的にそうなってた、折がわるかった、運が悪かったというか。> そういう漠然としたもののほうが影としてはなりやすいのかもしれませんね、明確であればそれなりに見切りも出来ようものですが、明確で無いが故にモヤモヤと感じる訳です。 >だからこそ、そういう曖昧模糊的な状況に関して、明確な罵倒対象を自動選択されるということも無きにしも非ずかという気もします。> ですね >こういう議論に肯定的に考える回答者さんも世間一般もあるわけで(ダメ日本人論とかの類はみなそれですね)、そういうかたがたもことごとく、疎外感からの投影とはどうも考えにくいことはないでしょうか。> そうですね、罵倒が全て疎外感で染まっているとは言い難いですね。 その中には屈折した賞賛性なんかも含まれるんでしょう、大抵 罵倒などをするタイプは自分が偉いさんであったり多少先輩風 吹かせるようなタイプであったりします、その手のタイプは疎外感 というより賞賛が欲しいのだと思いますね、自分の今までの生き様 を認めて欲しいわけです、それを情けない出来事を罵倒することに よって自分は優秀であるという賞賛が欲しいのでしょう。 大抵その手のタイプは情けない出来事を一とすると十のようにして 罵倒するでしょうし、その出来事が発生する前やその出来事に 関する良い事柄に関しては無視されるのでしょう、まあメディアも 事実を事実として伝える情報放送から、情緒を揺さぶるような屈折 放送が多くなりましたからね、そういう一面でも罵倒感情を促すの かもしれませんね、そういう意味では疎外感のみとは言い難いですね >また、客観的に(それが可能かはともかく)考えて、確かに醜い世相になったということを言うこと自体が、それほどナンセンスとも思われないわけです。> 確かに人間性や社会性といった言わば常識ともいえる次元ではナンセンスであると僕個人が思うところもあります、確かにそう思う人もいるでしょう しかし酷化させようという意図はご自身がそうさせてやりたいという願望がどこかあるから「醜い」という形容詞をわざと強調して書くんですよ |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:自信あり |
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回答日時:08/12/11 23:23 回答番号:No.13 |
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| この回答への補足 | お礼は後日いたしたいと思います。今回はちょっと補足だけ。 「生」に執着しないのが美的に感じると言うのは、私の生まれながらの傾向に根ざしている気がします。 それは、現代的な哲学(権利、生存、保有)というものを個人は最大限享受するのだ!という際限のない欲望肯定感に満ちたものから、少々シフトさせたほうがいいのではないか?あるいは、地球上になるべく人間が少ないほうがみんな楽できていいよという、茶道的な趣味なのです。 |
| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
回答 |
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| 回答者:TENNTENNSEVENOK | ども 昨日ですが、ご自身の悩みがなんとなく分かったように思います。 なので嫌ならこれ以上読まずに飛ばして結構なので知りたくなったら目を通してみるのもよいかもしれませんので書いてみます。 ただご自分で解決するのが一番良くそれを書くわけですから、最低限内容を容認できたらということにしてもらいたいです。 ただ僕自身もカウンセラーでもないのでご自身の問題の解決法を知っているわけでもないのでもし以下の文章を読んで気を悪くなされたら申し訳ないです。では書いてみたいと思います。 率直に言います、率直に言うとご自身は多分、疎外感だと直感しました つまり過去もしくは現在もしくは未来に対して疎外感を味合わされた経験とか現状とか不安とかあるんではないでしょうか? ご自身の文句は大抵以下のような内容です :「−−−」のような清潔な心(真の心、美しい心、正の心、etcのパワーポジティブイメージ)がない(欠如している、消えていったetcの欠如感)「////」と醜い(下種根性丸出し、非凡、etcの罵倒表現)です、「−−−−」をしろ!「////」をするな!(使うな!、etcの罵倒表現): です、つまりこれはご自身の疎外劣性感の投影ではないかと思うわけです なにかの次元で疎外感を味わっているご自身はそれに対して負の感情を感じており、それが無意識化されており、それを違う次元へ投影し、罵詈雑言を吐いているのではないかと思うわけです つまりご自身の疎外感の次元をAとします、そしてそれとは関係ない次元をBとします、ご自身の無意識では以下のような形成になっているわけです 次元A:疎外感{(ご自身の位置関係)劣←→疎外された出来事X(仮にXとする)} Aの疎外感を別次元Bへ投影する。 次元A:疎外感{(ご自身の位置関係)劣←→疎外された出来事X} ↓ 次元B:疎外化{(ご自身の位置関係)優性的←→罵倒される対象} こうではないでしょうか?つまり罵倒される対象を罵倒することによってご自身は優になれる、そのことによって元の疎外感をチャラもしくはどちらかというと優勢にしようと無意識が勝手に働くんではないでしょうか? つまり罵倒される対象は疎外された出来事だ、つまり罵倒する対象に文句を言っているようで疎外された出来事に文句を言っているわけだ、そうすることで自分は間違えていないんだとどちらかというと間違えているのは疎外した側だと確信したいんじゃないでしょうか?、つまりA次元を捻じ曲げB次元に投影しB次元で優越感に浸ることによってA次元の自分の劣感を優勢にしたいんではないでしょうか? なぜかというとB次元の文句は決まって「−−−−」が疎外されることに対する怒りが多いからです、例えばこの質問で言えば>現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか?> と疑問を呈するのは疎外感に対する投影が含まれているからなわけだ、なのでお礼に>「死」に名誉を求めるというモラルが消滅してしまった。死ぬやつは偉い、生きるやつは卑怯あるいは弱虫である、という潔いモラル、そういう清々としたものが世の中の価値観から消えていった。醜いことですね。>と書くわけだ。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/10 18:58 回答番号:No.12 |
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| この回答へのお礼 | どうも。 分析ありがとうございます。 大体当たっているような気がします。Aがあることは確かです。過去において、どうしても解決できないトラウマチックな思いというのが消えませんね。それは確かに疎外感と言うのが一番近いような気がします。 しかし、毎度のように、それを違う次元にのようなことを「無意識的」に行い、補償する作用があるのか?という無意識レヴェルの精神作用については、まったくといっていいほど自覚できない(自覚できないゆえの無意識現象なのかもしれません)という、いたちごっこにおちいっています。「!」っとこれが気づければいいのですがね。 また、B次元に行く必要が本当にあるのかどうかよくわかりません。疎外された状況は、なんというか、相手が確信犯的に疎外したというよりも状況的にそうなってた、折がわるかった、運が悪かったというか。だからこそ、そういう曖昧模糊的な状況に関して、明確な罵倒対象を自動選択されるということも無きにしも非ずかという気もします。 が、一方で純粋にこういう「世相」に対しての嫌悪感のみということも十分にありえます。わずかに過去の疎外感も絡んでいるかもしれませんが、こういう議論に肯定的に考える回答者さんも世間一般もあるわけで(ダメ日本人論とかの類はみなそれですね)、そういうかたがたもことごとく、疎外感からの投影とはどうも考えにくいことはないでしょうか。また、客観的に(それが可能かはともかく)考えて、確かに醜い世相になったということを言うこと自体が、それほどナンセンスとも思われないわけです。 |
回答 |
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| 回答者:littlekiss | こんばんは、garcon2000さん。 “ 女郎花しをれふす野の藤ばかまたがぬぎ置きしつゆの名残ぞ ” 【『百詠和歌』注釈】 http://www.media.saigaku.ac.jp/download/pdf/vol7/human/26_hu-yamabe... 【太平記】 http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html 【相続】 http://www.hm7.aitai.ne.jp/~niwa/newpage5-53.html http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/1995_7.html http://fxclick365.seesaa.net/ 大目にもってみたけど、こんでたりる? ↑ 注)はらもみのうち 姓といえば名 姓と名なけりゃ、どこのだれだかわかんない? ど-このだれだかしらないけれど だれもがみ-んなしっている って、時代もありましたね。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/07 01:27 回答番号:No.11 |
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| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
回答良回答10pt |
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| 回答者:TENNTENNSEVENOK | > この回答へのお礼 大変わかりやすいご回答で、助かります。私の思っているような感じのことを明文化して頂いたような印象です。 > そうですかそれはよかったです > 価値観の転換がありますね。「死」に名誉を求めるというモラルが消滅してしまった。死ぬやつは偉い、生きるやつは卑怯あるいは弱虫である、という潔いモラル、そういう清々としたものが世の中の価値観から消えていった。醜いことですね。 > これはどうなんだろう?と思います、批判ではないですが意見として述べますと いわば死への美的感覚の暗示に掛かってしまったおろかな民衆とも言えますよね?そうすれば醜いのは戦争の強さの誇示の優越性に対する暗示に掛かった国民の方が馬鹿だという見方もできなくないですよ 逆に現代は生への優性が生きていく力になっていて美しいなんてね 大いに価値観の相違でしょうがご自身が醜いと感じるのはご自身の心に醜さが存在するんでしょうね、自分が優越感に浸りたいから半無意識的にわざと同じ土台の上で優劣を作って劣に罵倒しているんじゃないんですか? そんなことしてますとその内自分の自己矛盾で心理破壊する破目になりますよw超自我でボーダーラインを引けなくなっているんじゃないですか?(なんせ誹謗中傷は犯罪ですからねw)まあこうやって忠告するのもここまでにしときましょうか?まあ今後は興味があったら質問内容のみに回答ということにしておきましょう。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/06 21:45 回答番号:No.10 |
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| この回答へのお礼 | なかなか、無意識というのは気づけないものですから。いまだにすり替えとか防衛機制を「実感」することができないですね。それらを気づけないと致命的だといえる気もします。可能な限り、自己を客観しできるように努力するしだいです。 |
回答 |
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| 回答者:krya1998 | No.5 krya1998 古来、老人の記憶把持は頼りのないもので、今、ご丁寧なお礼に接し、『大衆の質がちがってきた。険悪になってきたということなのでしょうかね。』というコメントにどう対するか、何を思い、何を書いたかそのときの自分がもう今は、彼方に薄く為りました。 だからこれは独立のものと思ってください。 残念かどうか見かた、思い方でしょうが、大衆が変わったということは見受けられません。イエスとかいう方を処刑に追い込んだ方々、共にあろうとしなかった十二使徒、そしてもう直ぐ四十七士、これは二二六などとともに私は日本人として美化して大事にしております。 利根の川風袂に入れて、月に棹差す高瀬舟。これも。 でも所詮大衆でして、本質はみな同じ、どこも変わっていません。 『険悪になった』? そんなことはありえません。 昔も今も大衆は大衆でしかありません。 イエスがどうか、釈迦がどうか。伝えの中には、いわゆる大衆の後付け、紡ぎのおひれなどがたくさんありますね。それを取り外せば、むしろずいぶん共感できるのではないですか。 ジャンクリストフ、アンネット、マハトマ・ガンディなども。 大衆の手垢が俗化してはいないでしょうか。孔子も老子も。 大衆はよどみです、水垢です。仕方の無いものです。 No.8さんがまた、ご参入ですね。いつもの通りで。まぁ大目に。女であることをご強調されていますが、ちょいと目鼻をつまんで、大目に。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/06 15:22 回答番号:No.9 |
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| この回答へのお礼 | 昔も「大衆」は「大衆」ですね。私もその一員です。忠臣蔵やら西洋にはその類もまたあるのでしょうが、「大衆」なくしては伝承されなかったでしょうね。 現代を特別に考えるのは間違いであるとまた思い知らされました。 |
回答 |
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| 回答者:littlekiss | こんばんは、garcon2000さん。 背番号1のすごい奴が相手 フラミンゴみたい ひょいと一本足で スーパースターのお出ましに ベンチのサインは敬遠だけど 逃げはいやだわ ●つまり、現在という時代は、そういう意味で潔さがない、 生へ執着し続けるという、ある考え方によっては 「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか? にゃるほど 試合の流れの中の一場面 “尋常に勝負勝負” と、おもえども… 戦術の組み立て(采配) 勝負どころがかわってくる 肩透かし 肩越しに 「あたっても塁にでろ!」 と、声が飛ぶ 「敬遠、敬遠、敬遠だ!」 と、声が飛ぶ 交差する思い 二人を分つ 個人か全体か 【全権委任法】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%A8%A9%E5%A7%94%E4%BB%BB%E... |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/05 23:05 回答番号:No.8 |
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| この回答への補足 | ちょっと、暗喩の方向がたくみすぎて、私の理解の外になっています。 |
| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
回答良回答20pt |
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| 回答者:kigurumi | いや、日本は言霊を信じる民族であり、無意識に言霊として、その言葉を使っているのではないかと思います。 強烈な呪術の言葉で、そう言われた人は、言霊の威力で、固まったり、体調を壊したりする人もでるほど。 強烈な呪いの言葉なのですが、むやみやたらに使ったらどうなるか。 呪わば穴二つ。 言霊を放った人自身も、ただじゃすまない。 自分が放った呪いの言葉の力により、不幸になる。 私はネットでたまに宗教関係者とバトルしますが、よく愛だの聖人らしい生き方だの言うわりには、相手は私に追い詰められると、絶大な効果だと思って「死ね」と私に言います。 ところが、どうしたことか 言霊じゃなくただの暴言のようで、私には効かない。 逃げる相手のしっぽつかんで振り回して遊んでしまいます・・・笑 ただし、効いた例はある。 反抗期に私は親とずっと言い争いをしていた。 それを黙って聞いていた兄は、私にたった一言だけ叫ぶように言った。 「死ね!」 私は言葉が出なくなった。 強力な魔法でしょ? 兄は私にとって尊敬対象だったんです。 その兄とは言い争ったことは無い。 その兄は親を守るために、刀を抜いて私になげつけた。 とても痛い真言でした。 これが真言・呪術が効果あるかどうかの違い。 ネットでは、他人に対して放たれるので、効果無い。 だから、私は詐欺集団からいくら「死ね」といわれても、へっちゃらなんだと思います。 生に執着しているとかじゃなくて、否定されたくない相手から存在を否定された場合、ダメージを受けるんじゃないか と。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/05 09:14 回答番号:No.7 |
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| この回答への補足 | あ、あと、「死ね」といわれたときにには、「あせるな、一世紀後には死ぬからこのがさつ者めが!」と言い返すことにしております。やつらは不死の概念で生きているんでしょうかね。バカかと。 |
| この回答へのお礼 | そうですか。しかし、その兄は尊敬に値しない存在だったことをそこで見抜くべきだったのではないでしょうか。つらい認識でありますが。反抗期などというものはないです。親がいたらないからそれにたいして抗議している正当な権利を行使しているものに対して、「死ね」という下種な言葉をはく人間、それはオミットするべきでしょう。 閑話休題で、やはり、人間愛憎に縛られますからね。どうしても愛着に縛られるものに「呪」を投げかけられることに耐え難い。 あとは、下らん宗教もどきにはどんどん罵倒すればいいし、しかしそんなくだらないやつっているんですね!宗教を信じるなどといいつつ、ボランティアするといいつつ詐欺をするようなものでしょうかね。参ります。 |
回答 |
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| 回答者:TENNTENNSEVENOK | 優性劣性の関係でしょうね、つまり優越感による暗示ということだと思います 昔は優越感が戦争で死んでいくことが優越であり、そうでなく逃げ回るのは劣性であると感じさせるような雰囲気的な心理誘導が世間的な雰囲気としてあったのだと思います、多分当時は、戦争へ行く=強者、逃げ腰=弱者、というイメージがあったんだと思います、なので戦争で死ぬということに美的感覚があったのだと思います。 現在は死というある種の現象は自分が生であることへの優性を示す一番簡単な表現方法なので現代はそれを平然と使うということだと思います、つまり現代は、死=嫌なこと,苦痛なこと,恐怖,グロテクスetc、というある種の負の感情を呼び起こす感覚しかないので平然と他者に投影して「死ね」と言うんだと思います、つまりこれは現代の一番簡単な劣性攻撃ツールということになると思います。 なんせ「シ,ネ」の二文字を相手に向かって怒りと共に発すればよいわけですから幼稚園児でも出来る一番簡単な攻撃方法なわけです また、文字が短いことから不意打ち攻撃が出来るんでしょうね、不意打ち攻撃を狙うのは動物的な考え方です、機嫌が悪くなったときに怒鳴り散らすパワハラや些細なことで直ぐにキレる若年層なども大いにこの動物性攻撃本能で反応しているということになると思います、そのツールの中の一つが「シ・ネ」のこの2文字なわけです、ご自身なんかもその手のタイプに半無意識的に突っ込んで行って罵倒して優越感に浸りたいわけですよね?まあそれの「死ね」バージョンですね。 |
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| 種類:回答 どんな人:一般人 自信:自信あり |
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回答日時:08/12/04 22:46 回答番号:No.6 |
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| この回答へのお礼 | 大変わかりやすいご回答で、助かります。私の思っているような感じのことを明文化して頂いたような印象です。価値観の転換がありますね。「死」に名誉を求めるというモラルが消滅してしまった。死ぬやつは偉い、生きるやつは卑怯あるいは弱虫である、という潔いモラル、そういう清々としたものが世の中の価値観から消えていった。醜いことですね。 |
回答 |
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| 回答者:krya1998 | 一部かと理解していましたが、そんな表現をする場面があるのですね。 一つは語彙の貧困でしょう。それは安易にことば表現ができない、しようとしない、懶惰でしょうね。 思索も生き方も欠落といってもいいかもしれませんよね。 刺激的とか、元気をもらったとか、誰かが使って、新鮮で適切な表現だとおもったのか、今も使う人がいるのにあきれているが、これも自分なりの言語使用の工夫と生き方をしないことの現象でしょう。 思索や生きかたの低劣さ、語彙の貧困はcyototu:No.2さんのご論述が詳しいですね。多少慨嘆もおありのようですが、私も全体的内容としては異論はありません。 お国のために、人のために、という昔だって、そりゃ生への執着は無かったわけではありません。 死ということについての、一般受け取り方が今と少し違いますから、多くの人もそういう意識の中でいただけでしょう。人のありようというのはそれほど相違していくものではありません。 武士の切腹はこれは背中に名誉を背負っているが故の、一定の方式の中の受け入れでしょう。 思考の停止は今も昔もありました。それが人間、大衆です。 当時の風潮、それが今から見ると、高度なところがみえるわけですね。それがゆえに、cyototu:No.2さんのご評論もあるのでしょう。 人は時代の風潮と方式の中で生き、思い、考えるのでしょうね。 人の宿命でしょう。 どこまで深く、本質的に、時代の枠に自由に生き、考えるか。 あまりそれをてっていすれば、地上存在ではなくなるでしょうが。 それにしても、現今のあまりにザッハリッヒで露骨な表現と関り、生き方はいただけないですね。確かに昔もそういう人もいましたが。 顰蹙の対象でした。今はある程度まで通用する、認められる自由性・個性性認容があるのですね。 質問者のように文化の指摘をされる方がいろいろおられて、また進歩か変化をしていくのでしょう。 でもは時代の枠の中で、時には安易という生存の仕方は続くのでしょうね。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/03 07:00 回答番号:No.5 |
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| この回答へのお礼 | 大変共鳴いたしました! 時代のくだらなさというのはありますよ。物質が豊かになればなるほど、逆比例して人心は荒廃している、そうだと思います。そういう法則から人間は逃れられないのでしょう。こんな無節操な世の中なんて、半世紀前は許されませんでしたよね。それは、ものがなかったから、不便だったからというのが1番大きいと思います。だから、人と接することが不可欠で、必要性から人間性は磨かれる、あるいはモラルの強制を受けることがあった、でも、人間は総体的に上だったのではないでしょうか? 大衆の質がちがってきた。険悪になってきたということなのでしょうかね。 |
回答 |
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| 回答者:maimaisus | >現在という時代は、そういう意味で潔さがない、生へ執着し続けるという、ある考え方によっては「醜い」価値観に覆われた時代とはいえないでしょうか。 考え方や、見方を変えれば「面白く」とも別の意味とも取れるとおもうのですが?物事悪く考えなければ精神衛生上は良いと思いますが? この文章自体どう受け取ります? |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/03 02:10 回答番号:No.4 |
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| この回答へのお礼 | どうしても、「生」に執着するのがきれいに思えないですね。もちろん「生」だけじゃない。いろいろな権利物質への執着。もちろん奴隷になれということじゃないですが、人間的に余裕を持ちたいものだと思うところです。 |
回答 |
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| 回答者:wiz0621 | 死ねという言葉が日常に使用される社会が現代だというならば 現代はなんと素晴らしい、完成された時代なのでしょうか。 私は現代に生まれたことを心から感謝したいです。 つまり、現代においては死は現実足り得ないのです。 『死ね』という言葉は他者への自殺の命令という、 不可能性の極地であり、同時にこの言葉が日常に使われる ということは、我々は日常において死ぬことが無いのです。 もちろん病気や事故によって死ぬこともあるでしょう。 ですがこれは、可能性と頻度を考慮すれ大多数の 人間にとっては非日常なのです。 もし死が身近に存在していたとしたら。 道端に蛆のわいた死体が放置され、ブヨブヨになった 肉が街に溶け出し、あるいは他者を刺突して奪わなければ 自己の存在が維持できず、もしくは、生きているのに 烏や鼠に肉を啄ばまれる状況だとしたら。こういった状況ならば 『死ね』という言葉はわざわざ使われないでしょう。 しかし、こういった状況が空想だと感じるならば、 『死ね』という言葉はもはや同様に空想となるのです。 これはすでに現実の死を意味していません。 つまり嫌い、という意味でしか使われていないのです。 生まれるだけで死ぬ、成長するだけで死ぬ。人間と会うだけで死ぬ。 こういった状況ではないことを意味しています。 では、何故『死ね』という架空の命令を不快に感じる人間が居るのか。 不快に感じる人間とは、つまり前述のような (現代において架空の)死を現実のものと感じているのです。 ここに齟齬が生じます。 どちらの人間が正しいのかを一概に論じることはできませんが、 少なくとも現代において『死ね』という言葉を現実の命令と 感じている人間のほうが、健やであり、同時に確実に 救いようの無いほど病んでいるとすら考えられます。 長文になってしまいましたので、以上を一行で平たく纏めますと、、 そんなのにいちいち目くじら立てること無くね?ってことです 今は昔より大分ましですよ。どちらの意味でも。 |
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| 種類:回答 どんな人:経験者 自信:自信あり |
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回答日時:08/12/02 20:51 回答番号:No.3 |
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| この回答へのお礼 | これが実に「目くじら」ものだと考えております。 お答えのような「死」が一般的に遠くにある現状においてだからこそともいえます。つまり、無責任にその御伽噺で憂さを晴らすという、まるでモラルのモの字もない低劣で卑怯な風習だと感じます。 つまり、もし「死」が身近にあり、その言葉が現実的重みを持つならば、これを言い放つことの勇気と責任性をもって確信犯的に言うという、一種の英雄的行為なわけです。それをなんですか・・・ 大変相対的総括的にお答えいただきまして、考えがすっきちしました。 |
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| 回答者:cyototu | 生への執着を第一義的に感覚なり認識しない存在は、生物の定義に矛盾しているので、それは生物としては病理でしょう。たとえ潔く死を選んだとしても、その裏に家族や仲間や種としての生への執着の込み入った表現である場合には、健全な行為であって病気ではありません。ですから、この問題は生への執着が増えたの減ったのという捉え方では、切り口が適切ではないと思います。 私はモラルの低下であると言うよりも、日本人の退化であると考えた方が判りが良いのではないかと考えています。人類は長い失敗の歴史の繰り返しから、互いに協力し合って生きてきた方が、バラバラで生きているよりも生存の機会を増やす確率が高いことを、本能のレベルばかりではなく理屈の上でも認識できるようになって来ました。このことは経験から判ることであって、決して頭の中の思考実験で判ることでは在りません。何故なら、自分自信を振り返っても判るように、だれでも他人のことを考えるよりも先ずは自分を優先させてしまうのが普通ですから。そこで、自分を先ず中心に置いてその利益を最大限して行けば自分が幸せになれるのではないかと言う考え方は子供にでも出てくるものです。ところがこの世界はそんな単純なものではないと言うことを、人間は歴史の繰り返しで教わってきました。もし自分の生への執着を最大限に満足させたいなら、一先ず周りの人間を満足させた方が効率が良いと言う、途轍もなく複雑な人間社会の構造を理解できるようになったのです。これは単純な世界観から複雑な世界観への進化です。世の中は複雑に出来ているのですから、単純なアプローチは危ないと言うことです。その進化の結果、大人達はまだ単純なことしか考えることができない子供達に、何をするにも自分の欲望を前面に押し出すのではなく、一先ず他人の気持ちに置き換えてどういう行動をとったら相手が喜ぶか、あるいは悲しむかを考えなさいと教えるようになったのです。 一方、土地も豊かで人口も少なく、自分達で開発したわけではないがそれを理解する教育をヨーロッパから手に入れた歴史的経験の浅いアメリカ人が、その幸運さの故に、自己中心的な生き方と言う最も未熟で単純な生き方をして、それが一時期うまくいったようです。もちろん、これには西欧が戦争で内部崩壊したと言う偶然が本質的に重要な役割を演じています。ただし、これを果たして成功と呼んでいいかに関しては、私は疑問を持っています。何故ならアメリカは、先進国と呼ばれる国の中で黒人ばかりでなく白人の間でも最も貧富の差が大きい国ですから。いずれにしても、この目の前の見かけの成功を見せられたと同時に、戦争で負けた大人達の自信の喪失を見た子供達は、若さ故に必然的に単純な思考しか出来ないにもかかわらず、この現実の世界である複雑系を理解できるような高度な教育を受ける機会を失ってしまいました。そして「今を大切に生き、自分を大切にしなさい」という一見筋の通っているような、アメリカ的単純自己中心的な世界観を受け入れるようになってしまったようです。これは、単純から複雑への向かう生物の進化とは完全に反対の方向を向いた、したがって生物学的には明らかに退化の方向に向かっております。上にも述べましたが、大人達の自信の喪失は大人達も含めてこの退化を進化と誤解させてしまったようです。この退化によって、日本の多くの若者は、自分を相手と置き換えて考えてみると言う高度な知的営みが出来なくなってしまい、自分が相手からされたらどんなに嫌なことでも平気できるようになってしまったのだと思います。その程度の低さたるや、それが自分の身に降り罹ってくるまでは理解できなくまでなっているようです。単に「消えろ」と言うのに「死ね」と言う表現を平気で使うまでになってしまったのです。そう言えば、今の演歌には「殺す」だの「抱く」だの「寝た」だの、昔の演歌では考えられないような露骨で「醜い」言葉を差し挟まないことには、ヒットが出来なくなっているようですね。これも、テレビなどで煽られた刹那的自己中心的、今と自分大切型の退化の表面化なのでしょうね。 私はこの退化を今の若者達の責任だとは思っておりません。若者は被害者なのです。加害者は、自信を喪失した大人達であると思っております。 昔アメリカでは「犬と中国人は叩かれなければ分からない」というとんでもない失礼な言い回しが在りましたが、日本人の退化を見ると、そのうち「犬と日本人は叩かれなければ分からない」という言い回しが定着しないか心配しております。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:経験者 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/01 23:38 回答番号:No.2 |
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| この回答へのお礼 | 大変、示唆に満ちた納得できるご回答、ありがとうございます。 たしかに、生の執着という捉え方は公正ではありませんでした。戦時中の道義というのも、ずいぶん自然に反したものでしたからね 退化ですか!面白くない現実ですが、あるような気がしますね。疑問を発するという心の動きがなくなってしまっている気さえします。 古来よりの、共同的人間社会を渡る方法と、アメリカニズムのような荒っぽく単純なものが、物質的にも歴史的にも台頭した結果がこれだという気はいたします。ヨーロッパの風習、人間関係は、やはり違いますからね。精神の成熟度を要求される、たとえ、荒廃しているように思えても、やはり、懐は深いと思われます。 日本人論の悲観論というのは方々にあって、どうもその通りだとしか思えないところがつらいですね。 |
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| 回答者:llama | ネットで言う死ねという言葉はどちらかというと消えろ的なニュアンスを 含んでいる感じがするので関係ないでしょ。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/12/01 19:46 回答番号:No.1 |
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| この回答へのお礼 | 消えろと死ねと同列に扱えるわけないでしょ。 |